- April 8, 2007
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81. 表現手法の交換可能性と似非科学
前回の記事でお知らせした展覧会、『ブルースパイラル展』は無事に終了しました。わざわざ見に来てくださった皆様、どうもありがとうございます。
さて、この展覧会に出品者として参加したメンバーは、普段はそれぞれ異なる分野で活動を行っています。もっとも、そのうち3人はプロフェッショナルとして「芸術」に携わっている人間ですが、それでも作品の形態や表現様式は大きく異なっているといっていい。
そこで、僕がこういう場面に身をおいたとき、いつも強く思うことがあります。それは、今回の記事のタイトルにもなっている「表現手法の交換可能性」ということ。このブログでも、ずっと以前に『メディアの変換』と題した記事でそのアイデアの片鱗を書いたことがあります。簡単にいうと、「同じ対象を違う方法で表現することの面白さ」ということですね。
たとえば、文学作品が視覚芸術へと転換されている例は、神話や小説を題材とした絵や彫刻など、枚挙に暇がありません。また、演劇や映画といった時空間芸術との相互変換も多くあります。そこからさらに身体性を強調すればバレエのようなものにもなるし、音楽の要素に多くスポットライトを当てれば、ミュージカルになったりもします。僕の個人的な感覚では、すぐれた作品であればあるほど、様式転換のポテンシャルも大きいのではないかと思っています。
ところで、「科学」というフィールドは、そのような状況の中にどう食い込むことができるのでしょうか。科学研究の訓練を積んでいる身としては、これがどうしても気になります。少なくとも、「科学はまったくの埒外である」とは思えない。
これに関して、イギリスの動物行動学者であるリチャード・ドーキンスが好んで語る話があります。そこで柱となっているのは、詩人ジョン・キーツが、その詩作の中で、「アイザック・ニュートンは光のスペクトル分析によって虹の詩的な美しさを破壊してしまった」と暗に非難した(と思われる)ことに対する批判。少し長くなりますが、ドーキンスの主張を引用してみましょう(括弧内は僕の注釈)。
…my worry is that it (science) is so useful as to overshadow and distract from its inspirational and cultural value. Usually even its sternest critics concede the usefulness of science, while completely missing the wonder. Science is often said to undermine our humanity, or destroy the mystery on which poetry is thought to thrive. Keats berated Newton for destroying the poetry of the rainbow.(私が案じるのは、科学の有用性ばかりに目が向けられ、その霊感的、文化的な価値が曇らされているということである。非常に手厳しい科学批判を展開する者たちでさえ、科学の有用性にはたいてい一定の理解を示す。しかし、話が科学の驚異となると、それは完全に眼中からはずされてしまうのだ。科学は我々の人間性を蝕み、詩情が育む神秘を破壊するものであるといわれることも多い。キーツは、ニュートンが虹の詩心を台無しにしたとして非難を加えた。)
“Philosophy will clip an Angel’s wings,
Conquer all mysteries by rule and line,
Empty the haunted air, and gnomed mine -
Unweave a rainbow . . .”
(「知を求れば 天使の翼は切り取られ
神秘はすべて 規律と秩序が絡めとる
精霊たちは 空と大地から棲み処を追われ ―
虹は無残にほつれゆく」)(中略)
…mysteries don’t lose their poetry because they are solved. Quite the contrary. The solution often turns out more beautiful than the puzzle, and anyway the solution uncovers deeper mystery. The rainbow’s dissection into light of different wavelengths leads on to Maxwell’s equations, and eventually to special relativity.(神秘というものは、その謎が解かれたからといって詩情を失うものではない。逆に、謎のままでいるよりも、解明されることによる美しさのほうが一層すばらしいという場合も多い。いずれにせよ、何かが解明されるときには、同時により深遠な神秘が見出されるものである。異なる波長の光へと分解された虹は、マクスウェルの方程式が生み出されることを誘い、やがては特殊相対性理論へとも通じてゆくのだから。)
キーツの詩(レイミア)全文: John Keats - Lamia
ドーキンスはこの後、その主張をさらに大きく展開し、”Unweaving the Rainbow”(和題:『虹の解体』)と題する著作をものしています。→ 著者の言葉
まあ、ドーキンスという人はときにかなり過激な物言いをすることもあるので、僕が彼のあらゆる主張に同調するかといえば、そうではないこともあります。しかし、「諸現象を詩的な感情で味わうこともできるし、そこに科学的な説明を与えるプロセスを楽しむこともできるのだ」というアイデアは傾聴に値するでしょう。
この話からは「虹という現象を表現する手法が様々に交換可能である」という可能性が得られるわけですが、そういった現象は他にもいくらでもあります。たとえば人間がしゃべる音声だって、周波数のようなパラメータを議論していくこともできるし、発声メカニズムなどをバイオロジーとして語ることできる。そして、そこに文学的な表現を与えることも可能ですからね。
ただし、こうしたアイデアをあまりにも安易に受け取ってしまうと、いわゆる「似非科学」というものを増長させる危険性もあります。たとえば、科学現象を文学的に表現する試みは歓迎できても、ある現象に対して文学的な表現だけを与え、科学的な表現を与えないまま「科学である」と主張するとしたら、それは問題です。
また、現時点で科学的な説明を与えることが非常に困難な現象は数多くあり、科学は「一点の曇りもない完璧な成熟」には達していません(それは芸術をはじめとする諸分野も同様)。しかし、そこでたとえば「超常現象」という表現を与えるだけで満足するのは、怠慢な態度であるといえます。
対象について、必要な/興味のある/自分にとってやりやすい方法で表現するというのは、はじめの一歩としては妥当なのかもしれません。しかし、「表現にはバリエーションが存在する」ということを軽々しく捉えず、真摯に心に留めるのであれば、「これは『超常現象』ってことでいいや」とか「これは『純粋に科学的な問題』だから関係ねーや」というような態度は取らず、他の方法による表現の可能性(深みのある描写を与えられる可能性、芸術として昇華できる可能性、将来的に科学的な説明を与えられる可能性)に目を向け続けるべきでしょう。
芸術作品の様式転換においても、優れた成果物の底流には、常にもとの様式に対する深いリスペクトが存在します。表現手法を切り替えるという可能性が、「楽な表現方法があるからそれでいいや」というような安易さを生み出してしまうとしたら、それは非常に悲しいことです。
甘さを廃した本物の変換には、頭の切り替えも必要ですし、一人の人間の中で全部やれるのが理想ではあっても、人間はそれほど万能にはなれないかもしれません。しかし、それでもなるべく多様な表現をあきらめないこと。多くの人がその意識を持ち続ければ、異分野間の対話は活性化するでしょうし、そこから一つ一つの現象に対して思いもよらなかった魅力が発見されることにもつながっていくのではないでしょうか。
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