- October 18, 2006
-
72. 国を主語にすることの危うさについて
ずっと前に、あるイスラエル人からこんなことを言われたことがあります。
「私の国に対しては、世界中の人々が様々な感情をもっています。多くの誤解もあるし、嫌悪もあります。もちろん、正しい理解を示してくれる人もいるし、賞賛を受けることもあります。でも、とにかくそういった諸々の事情のせいで、イスラエル人である私と話したくないと思ったりしないでくださいね」
こういうことを心配しなければいけない人がいるというのは、不幸な世の中ですね。
以下はこの発言に対する僕の回答。
「あなたの国に対して、多くの人が複雑な感情を抱いていることは知っています。でも、僕は思うんだけど、あらゆる国というのは、多かれ少なかれ単なる抽象的な集合体にすぎないでしょう。一つの国の中には、多くの異なった人間性を持つ様々な人が混在していますよね。だから、『あなたがどこの国の人間か』ということは、あなたという個人を判断する材料にはほとんどなりえません。
それどころか、『ある国についてのイメージ』というもの自体、よく考えると根拠は薄いように思います。たとえば、マスメディアを中心とする多くの情報源に基づいてよく勉強した上で、シャロン首相(当時は元気に活動していた)という人間についての好き嫌いを口にすることはぐらいはできるでしょう。でも、そこからイスラエルという国全体について何が言えますか?手に入るあらゆる情報をもってしても、そこから推察できる結果はせいぜいイスラエルという国が持つある一面についてではないでしょうか。
僕は不勉強にしてイスラエルの人口を知りませんが、世界中の誰一人として全イスラエル人のパーソナリティを個別に把握している人はいないと思います。これはもちろん日本についても、他のどの国についても言えることです。『イスラエル』とか『日本』とか、集団単位でものを見ることは、たとえば社会学者にとっては興味深いアプローチであるかもしれません。しかし、そういった視点が個人と個人のあいだの関係を邪魔するようなことは、決してあってはならないと思っています。」
もちろん、実際には世論調査をはじめとする各種の統計的なサーベイから、ある国についての「傾向」を掴むことはできます。また、ある程度の確率で誰かの個人的な信条なり考え方なりを推測できる場合もあるかもしれません。しかし、それは所詮傾向であり、推測にすぎないわけです。そもそも、統計処理というのは、誤解を恐れずにいえば個別性を埋没させるための手法。さらに、国という規模での統計情報となると(サンプルの数は多い場合も少ない場合もありますが)母数は概して膨大になるから、当然「はずれ値」に相当する数もかなりのものになります。
また、経験則というのも時には役に立つかもしれませし、損をしないためのストラテジーとしては優秀なものでしょう。しかし、これも統計を解釈する場合と同じく、他者を抽象的なマスのレベルで把握しなければ成り立たないものです。そのような戦略を採る際には、そのぶんだけ一人の人間としての尊厳のようなものが損なわれていくと思ったほうがいい。
国が纏う印象をもとに個別の人間を判断するということ。個別の人間や事象(あるいはその集合)から国全体のイメージを固めてしまうこと。これらはどちらも非常に危険なことです。そういった短絡的な思考そのものも非難すべきですし、それらを誘発するような言動にも注意したほうがいいでしょう。
最近、日本では首相が交代し、さらに北朝鮮をはじめとする世界各国の動きにも注目が集まっています。本当にいろいろな人がいろいろな発言をしている。北朝鮮は、韓国は、中国は、アメリカは、日本は……。真の行為者(行為者群)が曖昧になったまま、国を主語としている場面が目立つとは思いませんか。
もちろん、多くの発言者にはまったく悪意はないと思いますし、こんなところに潔癖なこだわりを見せていたら誰も何も言えなくなってしまうに違いありません。
しかし、冒頭のイスラエル人のように、本来まったく不要であるはずの心配をしなければならない人が存在することも事実。
世界を戦略ゲーム的に俯瞰するのも面白いかもしれませんが、「自分と同じように一個の人格を持った人間がどこにでもいる」ということを意識し、個別のリアリティに思いを馳せる度量を、もっとオープンに見せていってもよいのではないかと思います。
![[Blog in Space]](http://www.bloginspace.com/_assets/img/BIS_button2.jpg)