August 25, 2006

64. 『実験と結果』について思うこと

「ブログにこんな記事を書いてくれ」というリクエストを受けていたことを思い出しました。いわゆるバトンというやつですね。僕は普段こういうのを全然やらないんですが、内容が面白かったので今回だけ特別に書きます。

  • 最近思う『○○○』
  • この『○○○』には感動!!!!
  • 直感的『○○○』
  • 好きな『○○○』
  • こんな『○○○』は嫌だ!
  • この世に『○○○』がなかったら……

ということについて書くものらしい。で、この『○○○』というキーワードが指定されている。僕がもらったキーワードは『実験と結果』でした。

最近思う『実験と結果』

たぶん僕にはサイエンスの『実験と結果』について書くことが期待されているんだろうけど、科学実験に限らず、生きていくっていうのは総じて『実験と結果』の繰り返しだと思っています。これは別に、最近になって急に思いはじめたことでもないですけどね。

何か期待するものがあって(仮説)、それを実現するためにどうすればいいか考えて(実験計画)、実際にアクションを起こして(実験の遂行)、うまくいったりいかなかったりして(結果)、喜んだり次策を練ったりする(仮説の検証)。幾分比喩的ではあるけれど、かなり現実の生活に近いんじゃないだろうかと思う。

メシを作ったり洗濯をしたりという一見ルーチンに見える行動でさえ、こういうパターンに当てはめられないことはない。逆に、「何か面白いことをしてやろう」という魂胆で「これは実験だから」などと謳っていると、かえって笑っちゃうようなことも(ごくたまに)ありますが。

まあ、こういうのは誰もが意識的にせよ無意識的せよ感じていることですよね、きっと。では、僕がこれまで多少なりとも科学的な思考法を学んだり練習したりしてきて、何か実生活に影響することはあったのか。

これは難しいけど、もし一つ挙げるとしたら、それは「結果は単なる結果にすぎない」という考え方ですかね。実験をして結果が出ても、それはその時点では普遍の真理でもなんでもない。科学の世界では、何か面白い結果がはじめて発表されたら、それを多くの人が追試したり再検討したりして、長い年月をかけて真実が確定していきます(というのがあるべき姿だと思っています)。たった一つの結果というのは、たった一つの実験から得られた条件付きの事実にすぎないんですよね。

だから、普段の生活で何か期待通りにならないことがあっても、「上手くいかないからといって、別にそのこと自体は大したことはない。今回の条件、今回の方法では上手くいかなかったという『結果』が得られたんだからいいじゃないか」と考えます。次のトライでパラメータを一つか二ついじれば、あっさり上手くいくかもしれないし。

まあ、『実験と結果』なんて本来はそんなもんだと思います。

この『実験と結果』には感動!!!!

前述のように、僕は『実験と結果』ということに関して割とクールに考えるクセができてしまっているので、あんまり感動したりはしないですね。もちろん、普段の研究活動の点から言えば、それが進展するような結果が出れば嬉しいですけど。

歴史上の科学実験に関してということなら、これも強いて挙げればということだけど、メンデルのエンドウマメ交配実験かなぁ。理論に合わせて数値を捏造したという疑惑もあるみたいですが、提唱した原理自体は正しいことが証明されてきたし、その後の生物学の展開を考えると重大な発見でもありますね。何より、修道院の庭でこつこつマメを数えるメンデルおぢさんの姿を想像すると、なんだかしみじみとした気分になります(捏造説を主張する人たちの中には「実際は数えていないんじゃないか」という意見もあると思いますが、この「しみじみ」はもう想像力だから……)。

あとは、データのデジタル編集技術がなかった時代の解剖学の論文などで、銀塩写真で撮ったと思われる綺麗な図版を見るとけっこう感動しますね。スケッチもすごいとは思いますが、なぜか古い写真のほうが感じるものが大きいです。

直観的『実験と結果』

この質問はどういう意味なんでしょうかねぇ。『実験と結果』と聞いて、瞬時に頭をよぎるイメージはピペットマンですが。

好きな『実験と結果』

「結果」というものの性質からして、好きな結果というのは考えにくいですね。結果は結果。

好きな実験は……これも難しい。科学研究に必要とされる実験で、自分が実際に経験したもの・しているものの中から選ぼうと思っても、もはや「好き嫌い」という基準では語れない気がする。こういう言い方をすると誤解を生むかもしれないけれど、どんな実験にもかなり愛憎半ばするものがあります。

こんな『実験と結果』は嫌だ!

うーん、こう言われるとやっぱり連想しちゃうのは、データ等を捏造した論文。最近ニュースになることも多いですね。

ただ、こうも騒ぎ立てられると、いろいろと考えちゃうことがなくもないです。もちろん、いいか悪いか、好きか嫌いかと訊かれたら、悪いことだし嫌いだとしか言いようがないんだけど。

じゃあ何がひっかかるのかというと……。こういう問題、悪いことがあるとしたら、それは「データが故意に改変・捏造されていた」ということですよね?でも、ときどきではあるけれど、「論文に真実が掲載されていなかった」ということが議論のポイントになっている場合がある。

さっき書いたように、実験の結果というのは必ずしも普遍の真理であるとは限りません。実際、研究に携わっている人が論文を読むときは、「ここに書いてあることは絶対に正しい」という前提に立つことはないと思います。むしろ、間違った解釈が含まれているかもしれないということぐらいは、当然のように考えながら読む。まあ、たいていの論文誌には査読制度があって、絶望的に説得力が欠如した論文は数からすれば少ないでしょう。また、「とにかく気に入らない論文には難癖をつけたくなる」というのでは、ただの性悪です。しかし、健全な批判精神というのは、『実験と結果』に触れる上では必要不可欠。これは、研究する側があまり萎縮せずに結果を発表できるようにするという意味でも大切なことだと思います。

だから、「故意に結果をゆがめた」という点を問題にするのは良いことです(そりゃあ、論文を読むときにいつもいつも「悪意を持った嘘」まで前提にしなきゃいけないとなると、さすがに疲れます)が、「論文に真理と異なることが載っていた」というところに注目して大きく騒ぎ立てる姿勢には、ちょっと疑問符をつけざるを得ません。

この世に『実験と結果』がなかったら……

この記事のはじめのほうに「生きていくことは実験と結果の繰り返しだ」というようなことを書きましたが、これは人間に限ったことではないと思います。「意図」というものを持つことができる生物であれば、好むと好まざるとに関わらず、存在しているだけで『実験と結果』を延々とリピートすることになっているんじゃないかな。

だから、もしこの世に『実験と結果』がなかったら……と考えると、「不毛の地」みたいな景色が頭に浮かびます。

ずいぶん長くなっちゃったけど、以上。

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